「断薺画粥」
解釈:断、切れる。齑[jī]、すりつぶした生姜、ニンニク、その他の漬物。画、「划」と同じで、分割する。つぶした漬物と固まったお粥を分けて定量で食べる。生活の苦労を表現する。「断薺块粥」や「划粥割薺」とも書く。
人物:北宋の范仲淹
出典:北宋魏泰の「東軒筆録」:「惟煮粟米二升,作粥一器,経宿遂凝,以刀画為四塊,早晚取二塊,断齑数十茎,酢汁半盂,入少塩,暖而啖之」”
范仲淹は字が希文で、北宋の傑出した思想家、政治家、文学家であった。范仲淹の原籍は邠州(今の陕西彬州辺りである)で、唐の宰相である范履氷の子孫である。唐の後期、中原の反乱の時、范仲淹の高祖は江南に派遣され、呉県(現在の江蘇省蘇州)に移住した。五代十国時代、范仲淹の曽祖父、祖父、父親はすべて呉越の役人であった。
范仲淹は役人の家庭に生まれたのに、どうして「断薺画粥」をする必要があり、これほど貧しい生活を送ったのか。
呉越国が北宋に降伏した後、范仲淹の父のは范墉は武寧軍(現在の江蘇省徐州)の節度掌書記を務めた。范仲淹は節度掌書記の邸宅で生まれた。范仲淹が生まれてから2年目、父の范墉は勤め先で病気で亡くなり、母の謝氏は貧しく頼れるところがなかったので、2歳の范仲淹を連れて、淄州の長山(現在の山東省鄒平)出身の朱文翰と再婚した。范仲淹も姓を朱に変更し、朱説という名前を付けられた。「宋史・范仲淹伝」には、范仲淹について「少有志操,既長,知其世家,乃感泣辞母,去之应天府,依戚同文学。昼夜不息,冬月惫甚,以水沃面;食不给,至以糜粥继之,人不能堪,仲淹不苦也。」との記述がある。范仲淹は大人になって、自分の身の上を知って悲しんでたまらなかった。断固として母親に別れを告げ、応天府(現在の河南省商丘)に赴き、勉強した。昼も夜も一生懸命勉強し、冬の日にはとても疲れていたので、顔に冷水をかけた。食べ物が足りない場合は、お粥で空腹を拵えた。他の人はそれに耐えられなかったが、彼は苦しいと思わなかった。これは、正史における「断薺画粥」の記録である。北宋の魏泰は世間の逸話を記録した「東軒筆録」に、范仲淹が若い頃に一生懸命勉強した経験が書かれてあり、「断薺画粥」という物語が生まれた。
数年間の懸命な勉強の後、范仲淹は科舉試験に合格して進士になり、官職に就き、一時は参知政事(副宰相)を務め、慶歴新政を実施し、生涯の経験を通して「物事を喜ばず、自分自身を悲しまない」、「天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という精神を解釈した。「宋史・范仲淹伝」は、「古来より、一世代の皇帝の台頭には、一世代の有名な大臣が必ずいる。宋の王朝には、これにふさわしい仲淹のような賢者がいた。」と評価した。
若くて一生懸命勉強した范仲淹は、政界に入った後、人民の生活と苦しみを心配していた。宋仁宗の景祐元年(1034年)、蘇州は長期にわたって雨に見舞われ、「湖が氾濫し、川が塞がれ、都市が水没した」。范仲淹は水を治めるために故郷の蘇州に異動した。就任後、范仲淹は「囲いを修理し、川を浚渫し、水門を設置する」という治水政策を採用し、呉淞江の浚渫を自ら指揮し、常熟と昆山の川の水を海に導き、洪水をよく解決した。彼はまた、貯蓄を使って数千ムーの土地を購入し、一族の公有財産とし、「義田」と呼び、「義庄」を設立し、「義学」を設立し、彼と同じ族の貧しい子供たちが飢えや寒さという苦難を免れ、必要な教育を受けることができた。
若くて一生懸命勉強した范仲淹は、政界に入った後、貧しい学生によく気を配った。范仲淹が蘇州で職に就いたとき、彼は南園で土地を購入し、家を建てて定住する準備をした。風水師は、この土地は風水の宝地であり、ここに住むと何世代にもわたって豊かになると言った。范仲淹はそれを聞いた後、この土地に大規模な公立学校を建設し、蘇州全体を何世代にもわたって文化教育において繁栄させようとした。彼はまた、胡瑗など有名な学者を招待して蘇州で講演をし、全国に影響力を及ぼした。その後、宋仁宗は全国のすべての州と郡に学院を設立するという勅令を下した。「天下郡县学莫盛于宋,然其始亦由于呉中,盖范文正以宅建学,延胡安定為師,文教自此兴焉。(天下の郡県の学校は宋王朝に及ぶものはない。その始まりも呉中によるもので、范仲淹が家を学校に改造し、胡安定を教師とし、それ以来文化と教育が栄えてきたからだ。」(元代鄭元祐の「学門銘」)
若い頃、断薺画粥をし、一生懸命勉強した経験が、范仲淹に常に民衆の苦しみを気遣い、貧しい学生を念頭に置いたため、国と民を心配し、先に憂い、次に楽しむという人生観と価値観を形成したと言える。





