「沖冠一怒」
解釈:怒りで帽子を突き上げた。非常に怒っているという意味である。近義語「怒髪沖冠」。
人物:呉三桂、陳円円
出典:清・呉偉業『円円曲』:慟哭六軍俱縞素、沖冠一怒為紅顔。
陳円円は旧姓が邢で、名前が沅で、字が円円である。幼い頃両親が亡くなり、叔母の養子となり、叔父の姓は陳で、故に姓は陳に改め、蘇州桃花塢に住んだ。10歳の時に叔父に梨園に売られ、歌と踊り、琴、碁、書道と画を学んだ。
陳円円は花のように美しく、声が鶯のようにきれいで、「美貌と芸は共に素晴らしく」、演出の時に名士の気質があり、観客はみんな心が奪われたという。柳如是、董小宛、李香君、顧横波、卞玉京、寇白門、馬湘蘭と一緒に「秦淮八艶」と称された。「秦淮八艶」の才能と芸は抜群だが、明末清初の波乱の時に生きていたので、多くの感動的あるいは悲しい物語を残した。例えば、詩文が得意な柳如是は「江左三大家」の一人、常熟出身の銭謙益と結婚し、銭謙益が亡くなった後、族人の迫害により吊り下げて自殺した。琴と歌が上手な李香君と「明末四公子」の一人である侯方域との悲喜こもごもの戀愛物語は、中国古典四大劇の一つ「桃花扇」になった。蘇州の刺繍の名家出身の董小宛は「明末四公子」の一人の冒襄と結婚し、戦亂を乗り越えたが、最終的には疲れて死んだ。
冒襄は董小宛と情を結ぶ前に、陳円円と情を結んで、約束があった。その後、冒襄は家の事に巻き込まれ、予定通りに会いに行かなかったため、陳円円は不幸に外戚の田弘遇に奪われて都に入った。呉三桂は田の家に客として訪れ、陳円円の美貌に驚いた。田弘遇は軍事権を握る呉三桂と仲をよくするために、豊かな嫁入り道具を用意し、陳円円を呉三桂に贈った。当時の呉三桂は遼東を鎮守する寧遠総兵を務め、当時の明の朝廷は反亂軍の攻撃と関外の清軍の威圧の下で潰れそうだった。
『明史・流寇』には、「最初に、三桂は皇帝の命令で山海関に入り、援助したが、都の部隊は陥落し、進出を躊躇した。李自成はその父である襄を拉致し、手紙を書いて彼を招き、三桂は降伏しようと思い、滦州に至ったが、愛する陳沅が劉宗敏に奪われたと聞き、大変怒り、急いで山海関に戻り、敵を襲った。李自成は怒り、自ら反乱軍十余万人を率いて、呉襄を軍隊に連れ、東に山海関を攻め、別の将軍に一片石から関外に突撃させた。三桂が畏れ、私に降服を乞った」という記述があった。
呉三桂は軍人の家庭出身で、寧遠総兵を務め、清軍と10年以上戦い、戦功をあげた。その間、すでに清に降伏した叔父の祖大壽、さらには皇太極の降伏勧告の手紙をもらったが、呉三桂は降伏しなかったが、余地は残された。李自成が北京に進軍した後、呉三桂は崇禎の勅書に応えて都に戻り、崇禎を救おうとしたが、道が遠くて途中崇祯が自殺したと聞いて頼りを失い、躊躇し、新しい主を探そうとした。李自成が都に入った後、呉三桂は父の呉襄と家族を保護するために、もともと李自成に従順しようと思ったが、後に劉宗敏が呉襄を脅して虐待し、陳円円を拉致したことで、李自成側と決裂した。李自成は自ら軍を率いて東から山海関を襲い、呉三桂の軍隊、清の多爾衮(ドルゴン)の軍隊の共同襲撃に大敗した。清軍が関内に入った。
呉三桂の清に降服したのは当時の政治情勢の判断から、自分の利益を求め、家族の利益を守る結果と言える。陳円円事件は刺激作用があり、決定的な要因ではなかった。しかし「沖冠一怒」は、激動の時代に起こった。男女の団欒と離別する「小さい愛と恨み」が、王朝交代の「大事件」になった。非常にドラマチックで迫力あるので、明末の遺民が国の恨を表わす絶好の題材である。そして、白居易の『長恨歌』に匹敵する呉偉業の『円円曲』が誕生した。
呉偉業は梅村という号を持ち、明末清初太倉人である。銭謙益、龚鼎孳と一緒に「江左三大家」と呼ばれ、七言歌行が得意だった。
詩は「梅村体」と呼ばれ、娄東詩派の創始者である。『円円曲』は七言歌行、七十八句、五百四十九字で、陳円円と呉三桂の離合集散を描き、明末清初の一連の重大な歴史事件を反映している。
鼎湖当日棄人間,破敵収京下玉関。慟哭六俱缟素,冲冠一怒為紅顔。
……
妻子岂応関大計,英雄无奈是多情。全家白骨成灰土,一代紅妆照汗青。
……
『円円曲』は長編の敘事詩として、「詩史の風調と哀怨情韻を組み合わせた」ことで「梅村体」の代表作となった。「沖冠一怒」は蘇州の詩人(呉偉業)が蘇州人(陳円円)の物語を書いた「円円曲」とともに現在に至るまで伝わっている。





