同里鎮は、太湖のほとり、大運河のほとりに位置し、江蘇省蘇州市呉江区に属する。蘇州南部市街地、呉江区東北部にあり、西側に松陵鎮(滨湖新城)に直結し、上海虹橋空港まで車でわずか1時間かかる。蘇嘉杭高速と地下鉄4号線が開発区を貫いている。地理的な立地が優れ、水路と陸路の交通が便利である。古鎮区の範囲は東は東渓橋まで、南は入鎮口まで、西は陸家埭まで、北は紅塔埭まで、面積は0.87平方キロメートルである。
同里は先秦の時期に市場となり、会稽郡の呉県に属し、漢唐はますます繁栄するようになった。唐の初期に、名前は銅であったが、まだ村の市場に属し、九里村にあった。宋代、同里は正式に町を設立した。旧名「富土」の二字を再び組み合わせて、「同里」に分割した。嘉慶の『同里志』によれば、同里は「宋元の間、物が豊富で、商売人が集まり、手工業が発達し、庭園、池、亭榭があり、歌姫、舞姫が活躍し、大変盛んだった」。明代になって、同里はすでに「面積が五里に達し、住民が千以上の世帯があり、家屋が密集し、街路が曲がり、商品が豊富で、州郡と匹敵する」ほどであった。清代、同里は「住民が日増しに増え、町が日々拡大した」、「同川の役人は王朝が変わっても絶えなかった」との記述のようにがすでに豪邸が立ち並び、庭園はいたるところにあり、周囲百里の商売集散センターであった。雍正九年(1731年)に、蘇州府衙は同里に太湖水利同知署を設置した。咸豊十年(1860年)に、太平軍が同里に入り、前軍軍帥衙門を設置した。1912年に、同里は市と称され、後に呉江県二区となり、経済が繁栄し、米業が盛んになり、教育革新、文化が発達し、街並みが美しく、江南の大きな町となった。
悠久な歴史と繁栄した経済のおかげで同里は人材を輩出した。清代の『同川風雅集敘』は同里について「同川、江邑一隅之片址、然分淞江笠沢之秀、文人才彦彬彬、著述炳耀後先」と記述している。史料によれば、北宋から清末にかけて、状元1名、進士45名、文武挙人96名を輩出した。同里に住んだ歴史的名人には倪瓚、姚広孝、祝允明、唐寅、文徵明、董其昌、沈徳潜、柳亜子、費孝通などがある。
同里には旧跡があふれ、景観が豊富で、明の初期には「前八景」と「後八景」と呼ばれ、清代は「四景」を更に定めた。同里は歴史上、外部と船しか通らず、戦乱による災難はほとんどなく、お金持ちや地方の名家が動乱を避けて安住する理想的な場所であった。そのため同里鎮には広大な邸宅や私家庭園が多くあり、同里は専門家から「明清建築の博物館」と称されている。





